天人合一思想
天と人は本来合一の存在であるとする古代中国の思想・信仰「天人(てんじん)合一(ごういつ)」
文字さえも無かった古代に自然界の現象を在るがままに観て、天地自然の法則と人間の関連性を発見し、天と人との共通性・共時性を見出すのが「天人合一思想」であります。
人は天の欠片(かけら)であり、また人は天の欠片(かけら)であるが故に人は小さな天でもあるという思想で、「人」の文字は両足を開いて自立した人間を現わす象形文字です、その上に二線を画しますと「天」の文字になります。 この二線は人の頭上に存在する宇宙を示して、そして天と人との深いつながりや、人はこの極まる事なく無限の如く大きな宇宙のかけらでもあり、又この肉体は宇宙でもあるという、天と人との関係性を現わしています。
古代の信仰は天や山、大地など自然信仰が主でありましたが、それが幾万年もの歳月を費やして天の信仰が強く発展し継承されて、山岳信仰や大地信仰は廃れて限定的に残存するに至ったのでありますが、その古代の自然信仰が古代中国人によって経典化(きょうてんか)されたのが儒学の発祥であると考えられ、儒学の根本的思想に存在するのが「天人合一思想」です。
古より人の行いが悪ければ災いがあるという考えも天人合一の思想であり、誰も居なくて見えない悪事があったとして、他人はその悪事は見ていないかもしれないが天はその悪事を目撃しております。天には善悪という人間の価値に対して判断を下すことは考え難いが、ただ善い行いには善い結果を、悪い行いには悪い結果を返す訳で、因果の法則も天人合一思想です。
※二は上という古文字
天と人との合一性 天徳と人徳
この世の森羅万象で天の気を受けて生成されていないものは無いように、人というのは天の気を受けて造化・生成されております。
易経の序卦伝一番の卦である「乾為天」の卦辞には「乾。元亨利貞。」という辞が付せてあります、天は元亨利貞という四つの気を持っているという事を現わしておりますが、それが人間に配当されると仁礼義智という人徳となりまして、人間の人徳というのは限りなき天性の物であると考えられます。
「天」とは宇宙であり仏であり神でありゴッドであり太極である。
天とは一般的には宇宙を現します、易ではこれを太極と申します。
天は全ての物事の大いなる始まりである「大始(だいし)」であり、無から有を創造し形を成す「造化」の作用を持ち、創造主の様な存在であります。
天は唯一無二の絶対的な存在であり創造主でもあります。儒教はこの天を信仰する宗教であり、それが仏教であれば仏、神道であれば神、キリスト教であればゴッドであるような絶対的な偶像的な存在がありますが、表現方法は違いますが同一の事を申しているのです。
美しい神が宿る場所「精神」
日本の「八百万(やおよろず)神信仰」は山や川天地自然の中に神を見出して、人が作り上げたような刀やはさみ、人形などにも神が宿ると考えた。
その様な所謂、外側の神の存在と、人間の内側にある「潜在意識」にも神が宿ると考えた、そもそも精神という文字の「精」とは美しいという意味があり、精神とは神が宿る場所であり、人間の精神それこそ神であります。
ですから神というのは外にも存在するし、人間の内側にも存在するものであります。
天の気が凝固し、魂の存在となって、人間の精神となる訳ですから、人間の精神の根本的な存在である潜在意識は天と繋がる同一の存在であります。
「神」という文字は、「示」と「申」より成り立っております、それは人が神に申し伝えると、神が人にお示しになるという意義がありまして「鬼」というのは、神の言葉を人間の言葉に置き換える、審神者(さにわ)の様な存在であります。
進化・発展の聖書「易」
天という物は、その発生以来、進化と発展を止めることがありません。
天には「進化・発展」をするという「理」が在ります。
その理は人間にも当てはまります、人間にも天の進化発展を実現していくという「理」があります。
易経はその様な目まぐるしく変転して行く進化発展の理を説いた書物であるとも言えます。
CPUの様な存在である「精神」とOSの様な存在である「易経」
精神はパソコンやスマホでいう所のCPUの様なデバイスとすれば、そのCPUを動かすプログラムの様な存在として、学問や宗教や信仰という物があります。
精神が健全である一方で、哲学や信仰が無ければ上手に作動する事が叶いません。
「易経」というプログラムを学習する事によって、人というのは進化・発展をして行きます。