易経とは『占い』と『運命』の聖典

1.易を学ぶ意義


・真の幸福の追求の為

 

成功というのは個人の主観であり、あまり意味がありません。

なぜなら事業の成功を手中に収めたからと言って幸福というのは訪れては来ません、

手に入れる物が大きければ、失うときには大きい苦しみが存在するものでありますから。

私は事業に成功して無性に死にたくなる事がありました、

その話をとある人に相談した所「財も地位も名誉もあってそんな罰当たりな!」と言われましたが、

本当にその通りであると思います。

私にも、その方と同じように社会で成功する事が人生の目標であり、時間とお金さえあれば幸福という物は訪れるという漠然とした幻想がありましたが、然し成功を手に入れてもそんなものはありませんでした。

成功して存在していたのは自らの慢心と虚栄心、反骨心などの肥大した自我と、幾つかの悪感情でありました、易経と出会って人生の成功を手に入れて、その人生の成功を手に入れた瞬間、また奈落の底に落とされた精神になった訳でありますから、今考えれば贅沢な悩みでありました。然しそれが本心ですから相当苦しんだ訳です。失踪して泥沼の様な悪い精神と、悪い運命の中で、もがき苦しむのですが、そこでまた救われたのが易経でありました。

苦しみながらも易経の中に救いを求めて、そしてある時にひとつの真理を究明する訳です。

『真の幸福とは現状に満足し感謝する事』簡単に言ってしまえば幸福とは心の状態であり、

心の持ち方次第であるという事です。幸福と言えば幸福となりますし、不幸と言えば不幸となるだけであります。その様に真の幸福とは何たるかを知る事が無ければ、また真の幸福を叶える事は出来ませんが

その真理を決定的に自分の中で支持するには、確固たる真理が無ければ

真の幸福に成ることは叶いません。

それまでの仮初めの幸福感から脱し得たのが、私がまたひとつ易の世界に没入する新たなきっかけとなりました。

 

・私と易経の出会い

 

私は事業家に志してから25年という歳月が経ちました。4半世紀という時間を費やし事業に捧げて世の為人の為に身を呈してきました。おかげさまでその事業家人生を通じて様々な体験を得る事が叶いました。大きな成功もありましたし、50以上の事業を経験いたしました。その一方で倒産や破産、夜逃げという人生の辛酸を舐める事もありました。そんな人生の最底辺であった26歳の時に、私は大阪の八尾市にて全てを捨ててホームレスをして街を彷徨っておりました、その様な時分に私は奇跡的に「易経」と出会いました。そんな漢文なんて見たことも触ったことも無い青年が易の世界に惹かれて行くのです、最初はチンプンカンプンで易経を読むと眠くなるので、寝る前に読んだり考えたりするようになりました。そうすると不思議な物で、少しずつ易経が理解出来るのです。その様に易経が理解出来てくると楽しくなって、そうこうしている内に仕事を見つけて、家を見つけて、転じて東京に上京し、インターネット通販の会社を創業し、その会社が後に、その業界の中では日本一の大企業に成長を致しました。私は確信いたしました、易の理解度と共に人生の質が向上するという事を。その様にして深淵かつ広大無辺な易の世界に傾倒して行きます。易経というのは占筮の聖典でありますから易占を用いる際の確定的な典拠となり易占には欠かせないものです。然し、それは易経の一側面に過ぎません、易経には何が記されているかと申しますと、人によっては処世術であると、また人によっては哲学であると、否、運命の書であると言う人もいますし、また或る人は宇宙自然の法則を記した物であると言います。私はそれら全て正しいと思います、占筮の書でもあり、哲学であり、処世術であり、運命の書物であり、宇宙自然の法則が記されているのが易経であります。実際に宇宙の森羅万象を何万年も追及した結果として易経が現代に存在する訳であります。その易経を理解する事がこの宇宙人生をよりよく生きていく為の叡智でもあると思います。


2.易とは何か?『占い』と『運命』


卜筮(ぼくぜい)の書物『易経』

 

易の根本的な存在意義は卜筮のテキストで卜とは『ひび割れ』を表す象形文字です。

卜は鹿の肩甲骨や亀の甲羅などを火にくべて、その骨や甲羅が火に熱せられてひび割れた

その割れた(かたち)によって、狩りをする場所を決める為や、移動する場所を決める為に

もともとは狩猟採集民の酋長が執り行っていた、信仰的な儀式です。

現代風に言いますと『シャマニズム』であります。

卜というシャマニズムが興った時には、まだ人類には文字がありませんでしたから

口伝で先祖から子孫へと受け継がれてきましたが

文字が発達をして卜筮のテキストが出来たのが『(ぼく)(きょう)』です。

その卜経が言語・文学・哲学の発達した黄河・長江流域の中原に流れ着き

文章化されたものが『(ぜい)(きょう)』であり

筮とは、(めとぎ)という草の茎を用いてそれを特定の方法で数えて数自体で占う方法であり

その筮経が進化し完成した物が『易経』です。


・占いは信仰でありシャマニズム

 

シャマニズムと聞くと怪しいイメージがある事でしょう。

シャマニズムとは宇宙根源の源である『神』に繋がって、その啓示を民に示すのがシャマニズムであります。

その宇宙根源の源である絶対的な存在を儒教では天、神道では神、佛教では仏と呼びますが、この宇宙根源の絶対的存在である物を偶像化したのが神仏であり、偶像化しなかったのが天であります。神という文字は『示』と『申』から成り立っておりまして、人が神に対して意志を申すと、神が人に対して意志を示すという『(しん)人咸応(じんかんおう)』から成り立っております。神社や仏閣などで皆様がお手を合わされるのも神人咸応の儀であります。その様な宇宙根源の存在である神と繋がって、神の意思を人々に示すのがシャマニズムであり、易者というのはそのシャマニズムを執り行う所の媒体であるという事です。シャマニズムには過去の負のイメージもありますから現代社会では受け入れられにくいキーワードであると思います。然し、案外身近な存在なのです。

そして、易はシャマニズムが原点であり出発点でもあります、詳しくは易の成り立ちの中でお話を差し上げたいと思いますが、シャマニズムとスピリチュアルは全くの別物であるとお考え頂きたいと思います。スピリチュアルは霊感や霊視などの個人の超能力的センスであると思います。シャマニズムは前述のとおり天や神や仏などの絶対的存在と繋がって神の意志を示すものですから大きな相違があります。もう少し深堀をしますとシャマニズムには神に申す役目の者を『()』と申しまして、史は人々の意志を神に伝える役割であります。そして神の意志を示す役目の者を『()』と申します。筮は神の意志を人々に伝える役割をもっておりまして、易者が易占を執り行うというのは、宇宙根源の絶対的存在である神に人々の意志を申して、神の意志を人に示すシャマニズム行為であり神事でもあります。易者はこの史筮の役割を同時にこなさなければなりません。このシャマニズムの能力ですが、当然、先天的なセンスというものもあるでしょうが、後天的に開発する事が可能であります。

 

陰陽師 『易者』

 

陰陽師とは本来は易者を現わします。易では神仏の様な具象化した信仰する対象がありません、

私たちの信仰する対象は宇宙根源の絶対的存在である陰陽太極でありまして、

陰陽の理法を信仰する者が易者であります。

それは易経を理解すれば自然と感じる事ですが、

宇宙自然の法則の中に身を準じていた私たちの先祖は、未だ神仏のような概念が無かったので、原始時代の信仰と言えば自然と天地自然となり、その天地自然の絶対的な宇宙法則の中に幽玄微妙な太極陰陽の理法を見出してそれを信仰し生活の糧としていました。

それらが最終的に流れ着いた黄河流域の中原にて華を開かせて易経は勃興します。易経は陰陽を450パターンに分けて詳しく現わして、そこに注釈を付した書でありますから、陰陽師というのは魔除けをしたり風水を計ったりする者ではありません、それは仙術と申しますか、言ってみればスピリチュアルとシャマニズムの差であります。仙術に長けて占術にも長けている陰陽師も存在したでしょうが、本当の陰陽師の占術と仙術は似ても似つかない物なのであります。易者は宇宙万物に陰陽の法則を求めて、その末端である人類の運命に陰陽を当てはめて考える訳です。この事を『(しょう)()』と申しますが、象意とは見えざる物を観ようとして、その僅かな断片の相を見て全体像をイメージするという事です。その陰陽の象意を現わしている書が易経であり、その易経の意を介して宇宙人間の森羅万象を見通すのが陰陽師であり易者の役割のひとつです。

 

占いは神事

 

易聖と言われた明治時代の高島 嘉右衛門は「占いは売らない」として易占を商売にする事がありませんでした。高島翁は「占いは商売では無く神事(しんじ)である。商売で占いをするというのは至誠が尽くされないのであって、神はそれを助ける事は無い。」と仰っております。占いを商売にするのは誠真が失われる事となり、その結果として易断が乱れるというのです。易断は神事でありますから、そのご神託が乱れるというのは結果として告げないという事となる。確かに易者の手元の卦が確定し易断を下すのかもしれないがそれは形だけの物であり神意が無い場合がある。易断として出ているが、それは神が告げていない物も当然にあるという訳です。どれだけ誠真を持っていても神は容易くお助けにはならないのに、不誠実な者の願いを聞くでしょうか?無論、お聞きになる事は無いでしょう。ですから、易占は遊びで用いる物ではありません、ひとたび筮竹に向き合えば、鞘から日本刀を引き抜くが如く、精神を集中と無の状態に切り替えて神人合一の霊妙なる境地に至る事が大事です。それは難しい事かもしれませんが、易の道に志したならば避けては通れない道でもあります。

 



・運命の学問『易』

 

易は『運命』の学問です。

易経の本文には人間の運命を386の分類にして(ことば)にされております、それは伏羲(ふくぎ)(しゅう)(こう)・孔子の三聖を経て、人類数千年の運命探求の結果として易経は完成いたしました。

古代の聖人たちは天象を観て、その法則性から陰陽を見出して天を陽とし、地を陰であると導き出し、そこから陰陽を展開させて太極→陰陽→四象→八卦→大成(たいせい)()として制定し、陰陽の象に辞を付し、そこに解釈を加えると、そこには人間の運命という物がはっきりと記されていました。

表面に現れて具象化される物事や概念の裏側には必ず陰陽の存在があります。

森羅万象を陰と陽に分けて、陰陽は対立する一方で、相い待つ存在であるという

陰陽の存在や関係性を明らかにし、人の運命の裏側には陰陽の存在があり

変転してやまない運命の法則を究明したのが『易』であります。

 

運命のウィキペディア『易経』

 

易経は人々の幸福の追求の為に偉大な先人たちが練り上げに練り上げてきた『運命』の書でもあります。易経にはその人間の運命が克明かつ鮮明で詳細に記されておりますから、当然、この易経を読む者は運命を自ら開くわけであります、運命に強くなりたいのであれば運命を理解する事が大事です、人間は言語に出来ない物事は想像する事が出来ませんから、運命に通じたいのであれば運命を言語化する必要があります。易経には宇宙の森羅万象から人生の運命を導き出し、それを卦に示してくれております。人間の運命の根源は天にありますし、天の気を分け与えられたものが運命であります。人間の運命を親切丁寧に網羅しているのが『易経』でありまして、現代風に申しますと易経というのは運命の『ウィキペディア』みたいな存在なのであります。ですから易経は『開運』の書物といっても過言ではありません。東洋哲学の碩学(せきがく)安岡(やすおか)正篤(まさひろ)先生も「私の人生も易と出会っていなければ私の運命はどうなっていたか分からない」と仰っております。

 

天の絶対的法則な『運命』と人の主体的な精神『運命』

 

『運命』という言葉は中国語です。

日本語に書き下すと『(めい)』を『運ぶ』と書いて『運命』です。

運命には大きく分けると2つの()が存在致します。

それは、天の絶対的法則な『運命』と人の主体的な精神の『運命』です。

天の絶対的法則な『運命』とは、例えば春夏秋冬の様な季節は天の絶対的法則な運命です。

冬は寒くて、夏は暑い、夜は暗くて、昼は明るいのですが

これは絶対的に抗うことが出来ない運命です。

「私は寒いのが苦手です。冬は嫌なので夏にして下さい。」というのは

絶対的な運命に抗う事です。

人の主体的な精神の『運命』とは

例えば不健全で悪い精神であれば、悪い現実が訪れるでしょう。

全てに対して不満を抱き、自分の家庭環境や生い立ちを後悔して

未来に対し不安で、感情は不安定で物事に集中できていない状況であれば

現実はそれに即して悪くなるだろうし、それが習慣化してくると

人相や坐相、手相、家相などの『相』に現れて、結果として悪い運命となり。

それとは対照的に健全な精神には健全な相が宿り、健全な運命が宿ります。

これが天の絶対的法則な『運命』と人の主体的な精神の『運命』です。

運命とは決定している物事ではなく千変万化して止まることがありません、

そして運命には必ず『因果の法則』が伴います、

自分が蒔いた種が芽を出して花を咲かせるように、

良い原因には良い結果が、また悪い原因には悪い結果が伴います。

変化し続ける運命と、不動の運命という物があります、

不動の運命とは人間の世界に置き換えると『真理』であると思います。

真理とは揺るがす事の出来ない真実の法則であり

その真理法則の範疇の中で如何に自らの(めい)を動かして天命を果たすのか

易経にはその真理である不動の運命が余すことなく記されており、

その情報量というのは莫大な物があります。易経は人間の運命を網羅した哲学であり

易経を学ぶという事は、運命を学ぶという事となります。

 

3.易に志すときの心がけ

 

 

愚かであるが故に可能性がある


..匪我求童蒙.童蒙求我.初筮告.再三瀆.瀆則不告.利貞. (易経 山水蒙)

【読み下し】蒙は(とお)る、我は童蒙を求めず童蒙が我を求める。初筮(しょぜい)は告ぐ再三すれば(けが)れ瀆れれば則ち告げず。貞に利あり。

 

山水蒙の卦はこの様に説いている。幼いという事は成長出来る事である。こちらから出かけて行って教えるという師の道は無く相手から教えを請われた時に教えるというのが師の道である。一度目には真剣に誠心誠意を持って答えるが

それが二度・三度となれば答えないというのが師の器である。この山水(さんすい)(もう)という卦は、よく易のお話の時に引き合いに出てくる、易の代名詞みたいな存在でありまして、この山水蒙ひとつの卦で師の道、学問の道、啓蒙の道、学徒の道、占い師としての道を説いております。この山水蒙の蒙という文字は『つる草』の一種であり、つる草が木を覆って木を見えなくしてしまいます。ですから蒙は何かに纏われて見えないという字義から見えない・暗いという意義にも繋がって、その見えない事を『蒙昧(もうまい)』と呼び、暗いという事を『暗蒙』、幼い事を『童蒙』と呼びます。これは山水蒙の悪い側面であると思いますが、その反面、側面には、未熟であるが故に成長の余地があるという善の面もあります、物事に蒙いという事はそれだけ純粋であるという事、学問というのはその純粋な気持ちで誠心誠意、自分の関心ごとに対して童心の追求心や遊び心を忘れずにして、自から問うて行くという事です。この純真さが学問をする上で大事であり、その山水蒙の様な志で学問に向き合うのならば、蒙が啓かれて啓蒙するというのです。山水蒙とは啓蒙の卦でもあります。

 

 

易を学ぶ上での心がけ

 

韋編三度絶. (春秋戦国 魯)

【読み下し】韋編(いへん)三たび絶つ.

 

という古の聖賢の言葉があります。これは孔子が『易』を繰り返し読んだので、書物を綴じてある所の竹簡のなめし革が三度も切れたという辞ですが、孔子の様な聖人であっても『易』というのは何度も何度も繰り返し書物が擦り切れるほど読み明かしたという事の例えですが、孔子ほどの聖人でさえも手を焼いたほどの学問でありますから、それ程に易というのは深淵で難解な学問であるという意味であります。凡人が一度読んだり聞いたりしただけでは到底及ばない学問であるという事です。それこそ易を極めようと思えば3040年はかかると思います、どうしても時間がかかってしまうものですから、易を学ぶ者の心得としては無理に記憶しようとして苦学するのでは無く、楽しんで学ぶという意識が必要です。筮竹や算木などの一揃えの易占の道具を揃えて素人易者をしてみるのも易を楽しむポイントかもしれません。易断を立てると易経が典拠となりますので易経を解釈する必要があります、それも最初は理解するのに苦労をすると思いますが、それでも少しずつやっていると『なるほど!』と唸らされることが多いのです、古代の哲学であるのに現代でも新鮮であり続けるのが易なのです、真理という物はまた不偏的であると痛感させられるのです。その様にして易経の解釈というのが易の面白さのひとつであり、孔子様でさえものめり込んだ学問であるという事です。

 

楽天知命.故不憂.(繋辞伝 上)

【読み下し】天命を知り楽しむが故に憂えず.

 

という古の聖賢の教えがありますが、天命とは天から与えられた『(めい)』であります。『(めい)』と『(いのち)』は違います、(めい)とは、この宇宙を造化する根源である『太極』の絶対的な作用の事を『(めい)』と申します。易を学ぶ上で陰陽太極思想には通じておかなければなりません、陰陽に精通していなければ易経を読む上で理解が及ばないことが多いと思います。宇宙根源である太極の(めい)によって造化された存在である私たち人類は、決して太極から切り離された絶海の孤島の様な隔離された存在ではありません、それとは反対に自分がこの太極の中心であり太極でもあるのです、私たち人類は産まれながらに『(めい)』が与えられております、そこに個々の性質や精神が生じて『(せい)(めい)』と進化して『(いのち)』となる訳です。そして物質の中で最上の性命を与えられた物質であるという事から私たちは『万物の霊長』と自称する訳です。

天命というのは、偉大な天(太極)の命によって造化された人間に無意味に意識が与えられるという事は決してない、存在するには存在するだけの因果が有るという事ですから、無駄に意識を与えられるという事は決してない。生かされているには必ず目的があります、それが私たちの生かされている『天命』という理由です。自分という存在は何の為に産まれて、何の為に生きて、何の為に死ぬのか?自分の存在理由を理解し天命を知命した時に、人は一喜一憂せずにして天命を悟って之を楽しむのだという事ですが、物事の上達方法は『楽しむ』という事に限ります、楽しくない事は努力をしても長続きしない物です、ですから無理に楽しみなさいという事ではなく「楽しくするにはどの様に努力すれば良いのか」という事に注力するのが良いと思います。その上で易学を志すに際して、自分の存在理由である天命を知って、その上で自分の天命に易学が活きてくるような事であれば、きっと人生も学問も好転致します。難しい物事を難しく考えるのは誰にでも出来るのであって、難しいことを簡単に考えて、それをどの様にすれば楽しくなるのかを検討し、どの様にすればストレスなく楽しくできるのかを日々、実践し続ける事が易を学んで行く為には重要です。易を学ぶというのは人生の目的ではありません、みなさまの人生の幸福の追求の為の手段ではあると思います、然し、その人生を幸福に足らしめたいのであれば易の学問が有効であるという事をお伝えしたいと思います。

 

其背不獲其身。 (易経 艮為山)

【読み下し】其の身に(とど)まり、その身を獲ず。

 

その背に止まって、その身を獲ず。という易経の卦辞がありまして、凡そ人間の感覚器官である目や耳や口は身体の前面にありますから、その身を獲ずといのはその様な外部の感覚を遮断するという事です、人間は外部との交わりによって自我を確立致しますが、その外部との交わりを断つわけでありますから自我を失うという『没我』の状態を物語っております。没我というのは他者との対比がありませんから全体から分かれた個である自分を無くすという事です。そして背中というのは鈍感な部位でありまして、その鈍感な背中に止まるというのは、背中には感覚器官がありませんから、そもそも情報がありません、情報が無いという事は何か一つの事に集中をしている『没入』の状態であります。母親の胎内で成長をする赤子の様な、ひたむきで純粋に成長を求める聖なる働き、没我・没入の境地を現わした卦が(ごん)為山(いざん)であります。この様な心境で易を学んで頂きたいと思います。然し何もそんな大層な事ではありません。みなさまにもきっとご経験があると思います。何かに没頭をして時間も我も忘れて物事に集中し楽しんでいた充実した時間の事を。易を学ぶ時にはこの心境がとても大事でありまして、日常から不即(ふそく)不離(ふり)で易経を傍らに置きそれを生活の元とする事です。易経の本文を理解し解釈をする力が付いてくると哲学的な思索力が素養されて、物事の栄枯盛衰、運命の流れ、真理などが究明されて、それらが自らの根本を高める事となります。易経に没入して行きますと人生の質が向上致します、人生というのは常に右肩上がりという訳にはいかず、時には右肩下がりとなる事もあるでしょう、その様な人生の浮き沈みの要点に易経が活きてまいりますから、易経の世界に没入・没我してそれに委ねるという事が肝要であります。