易の成り立ち

周易では六十四卦によって森羅万象の一切を示すと言われていますが、その森羅万象の中で海については触れていない、沢や沼地は兌(だ)の卦によって現わされ、川は坎によって現わされる、海という無視の出来ない大きな存在について易は何も触れていないが、それは易を考えた民族が中国大陸部の奥深い内陸部に住んで海という物を知らない民族であったからである。現代の研究では易の発祥は殷の西方で周よりも西方のモンゴルであったと言われております。

古代モンゴルの易

古代モンゴルにはシャマニズムの信仰が強く、『穆(ぼく)天子伝』(紀元前318年―297年)の中にもこの様な記述がありまして「周の穆王が、陰山山脈の山中にて柏夭(ぱやん)と会見して南征北戦の運命を神託によって授けられた」。柏夭というのは神の神託を受けてシャマニズムを執り行う『卜(ぼく)』をするシャーマンの事であり、穆王が出征にあたって武運をモンゴルのシャーマンに占ってもらい、正義の戦であるという神からの証明を頂いたというお話ですが、これは古代モンゴルではシャマニズム信仰が根強かった事を物語っています。モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カン(1206年―1227年8月25日)に於いても、元について書かれた元史(1206年―1367年)の中にこの様な記述があります。「太祖また羊の肩骨を灼き以てこれに符(あわせ)て然る後に行う」慎重なチンギス・カンが軍事行動を起こす際には羊の肩甲骨を火にくべ入れて、そのひび割れの象形によって戦局を占っていた。チンギス・カンはその占断によって軍の進退や戦略を決めて実行をしていました。古代人が天地自然の法則から宇宙の森羅万象を観ようとして、ごく自然発生的な宗教的儀式が古代モンゴルではシャマニズムとして発展し、古代の易は巨大帝国を樹立する原動力となりました。

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殷代の易(紀元前17世紀―紀元前1046年)

河南省安陽群の殷の都の遺跡から大量の亀甲や獣骨が発掘されました、それは亀の甲羅や獣骨を灼いてそのひび割れの象で吉凶を占う『卜』に用いられた物であり、殷代には多く国家の大事を決めるのに卜を用いたとされます、そして殷代の甲骨文の中にはこんな記述があります。「貞(と)う。土方(どほう)を伐つことなかりき、帝が我に祐(たすけ)を受けざらんか」

土方というのは現在のモンゴルを現わしたものと考えられております、殷代にはその北方から西北にかけて属領があり、その属国のひとつであったモンゴルが外敵から侵略された時に、その支配国である殷に救援を求めてきた甲骨文の記述であります。殷代には獣骨を灼いてそのひび割れから占う卜は存在し、古代モンゴルでも殷代にあった卜は存在しておりました。古代モンゴルの王アッティラ(406年―453年)はヨーロッパに侵略したときに卜をしたとも伝えられております。

亀卜

周代の易(紀元前12世紀―紀元前3世紀)

周代(紀元前12世紀―紀元前3世紀)に入りますと、その様に亀甲や鹿の肩甲骨を用いて行う『卜』から『筮(ぜい)』の方が多く用いられる様になりました。筮とは蓍(めとぎ)という草の茎を用いてそれを特定の方法で数えて数自体で占う方法に変わっていきました。卜は信仰であるとすれば、筮は信仰を追求した結果として論理的であり形式的な存在です。まだ狩猟採集の文化が根強かった殷代には、黄河や長江あたりでは亀が多く採取出来て確保が容易であったのであろうが、周代の様に農耕文化が根強くなってくると、その様な亀や鹿の肩甲骨などは入手し難くなって草の茎を用いる事が主流となり、易経の本文の中にも亀の甲羅というものは貴重で高価であるという文章が散見されます。殷代の亀の甲羅を用いる『卜』にはシャマニズムの傾向が非常に色濃くあるが、周代の筮竹を使って数を持って占う筮は、それぞれの数には象徴的な符号である『卦(か)』が示されて、その卦を解説する『卦辞(かじ)』の完成によって筮は論理的な存在に進化して参ります。漢書の芸文史の中に「易道は深し、人は三聖を更(へ)て、世は三古を歴(へ)たり」と記されておりますが、易の歴史は古く、古代中国の伝説上の帝王である伏羲(ふくぎ)と周王朝の開祖である文王、儒学の始祖である孔子の三聖人の手によって、三つの古い時代である古代・殷・周の時代を経て完成をしたという事ですが、易は代々、長い年月と聖人の手によって練り上げられて来たものであり、卦辞は文王の作で、八卦は伏羲の作であると伝えられております。亀甲による千変万化な霊妙な卜から、周代に筮に発展し、その象徴的な符号に卦辞というテキストが完成したことによって今日の易を『周易』と呼ぶ所以であります。

筮竹

易の派生・分派

中国古代の礼書である三礼の一つ『周礼(しゅらい)』には「太卜(たいぼく)を掌(つかさど)る官吏(かんり)が『三易』で以て占筮した」とある。『三易』とは『連山(れんざん)』『帰蔵(きぞう)』『周易』を意味しており、連山易は夏(紀元前2070年頃 – 紀元前1600年頃)の時代に発祥し、彼らは山岳民族であったので山を主とした易で艮為山(ごんいざん)を信奉していたと考えられる、その時代の易は自分たちの生活範囲の中心である山を主にした物であったので、山を中心とした易が必要とされました。帰蔵易は殷(紀元前17世紀―紀元前1046年)の時代に発祥し、専ら大地を主とした易で坤為地(こんいち)を信奉していたと考えられる、山で狩猟採集をしていた民族が、平地に降りてきて農耕民族へと進化して行くにあたって、その生活の中心である大地を主にするのはこれも自然な事であり、それから周代(紀元前12世紀―紀元前3世紀)になって卦象に卦辞が付せられるようになって周易は完成し現代に至る訳です、周易の特徴は乾為天を始まりとする様に『天』を中心とした易であり『天人合一(てんじんごういつ)』の思想が非常に強くありまして、天を中心として描かれた易が周易であります。形而上の存在である天から形而下の存在である運命を説くのが周易の理です、連山易と帰蔵易は時代の変化と共に滅んで行き現代には現存しておりません、それはあまりにも複雑であって実占的ではなかったのです。

周易の構成図

八卦を化成したのが伏羲(ふくぎ)であり、八卦に八卦を合わせて大成卦を創造したのが神農(しんのう)、その大成卦に卦辞(彖辞)を付したのが周の文王、爻辞は周公の作と言われている。そして全体の総論として十翼(彖伝上・下 象伝上・下 繋辞伝上・下 説卦伝 分言伝 序卦伝 雑卦伝)が孔子の作と言われている。伏羲の時代には文字は存在せず、伏羲の易は陰陽の象意を観て八卦を化成し吉凶を判断する『象』として観て、後にその八卦を文王が観て卦辞(彖辞)を書いたのが、文王の易であり「乾は元いに亨る貞しきに利しい」という卦辞(彖辞)は文王の『理』である。そして十翼は易経の本文を補填する意味合いがあり、これは孔子の易であって易経を仔細かつ俯瞰した、孔子ならではの推察であり『道理』を説いたものである。

故周公為之作爻辞。或占得爻處不可暁。 故為之作彖辞、 後文王見其不可暁。 竊意如此。某不敢説。無文字。 陰為凶。只是陽為吉。想皆解当初之。故孔子為之作十翼。又自作伏羲易看、伏羲易、故学易者須将易各自看。

 『一六二二頁』語類